2012年5月7日月曜日

幕府が囲碁と将棋の序列の優劣を決めた根拠はなんですか?家元制度創始の際の事情...

幕府が囲碁と将棋の序列の優劣を決めた根拠はなんですか?家元制度創始の際の事情と、大岡忠相のときの裁きの事情を教えてください。







本因坊算砂は、碁をもって信長、秀吉、家康の御前に出仕しましたが、家康が幕府を開き、江戸に移るときに、算砂を道中江戸まで同行させるほどの信頼をもって碁打将棋指衆を統べるよう命じられました。

寺社奉行付きの碁方・将棋方という職務が発生し、それぞれ碁所・将棋所という統括者の役職も生まれます。

本来、算砂は全体統括者であるべきでしたが、将棋方を、当時の最強者である大橋宗桂に任せ、囲碁、将棋を分けました。

俗説に、算砂が「一人に権力集中するので、将棋のほうの弟子である宗桂に譲った」という書き方もありますが、宗桂が弟子であったという記録は存在しません。



幕府の役職としては、まず算砂が命じられ、算砂は囲碁方。その次に将棋方が生まれた、という過程があって、碁方は将棋方の上席と、最初に定められたのです。



その席次は、ずっと続いていましたが、およそ100年の後、本因坊7世秀伯の時代に、将棋方から異議の申立てがでます。



それは、本来の席次は、①碁所②将棋所③碁方の家元④将棋方の家元、でしたが、碁所に就くものがいないときは、①の席に本因坊家当主が座るという取り決めになっていたことです。

初代本因坊算砂によって、碁、将棋の地位が確立したという功績をもって、「本因坊家は特別」ということが認められていましたが、五世本因坊道知の没後、名人・碁所が不在の時代が続き、六世知伯、七世秀伯と、単なる一家元、六段の地位のものが、将棋所より上位に座ることが、将棋方にはおもしろくありません。

碁所不在で衰退している囲碁界に比べて、当時の将棋所は伊藤宗看、将棋がもっとも隆盛した時代でした。



そこで、ときの寺社奉行井上正之が大の将棋好きなこともあって、「席次は、碁将棋、公平にしろ」と運動を起こしました。碁所、将棋所の席次は1年交代、他の家元は就任順とすることを求めたのです。



しかし、序列の改正を求めて議論をしているうちに、井上正之が急病で亡くなり、大岡忠相が臨時で寺社奉行を勤めることになります。

で、その碁将棋席次騒動を聞き、「前例はどうであったか」のみを確かめて、「席次は従来通りで不都合なし。碁打、将棋指しは、口で議論するよりも、それぞれの芸事に励み精進するものである」と、将棋方の要求を退けました。



大岡が碁好きだったというのは、後付けの話。碁将棋への肩入れはなかったと思います。








①序列に関しては、大橋宗桂が本因坊算砂の弟子であった(らしい?)、ということが大きかった。

②初期の著名な将棋指しには、加納算砂(本因坊算砂)や宗桂(大橋姓は没後)らがいる。

算砂と宗桂は互いに将棋・囲碁の好敵手で名勝負を繰り広げ、現存する最古の将棋棋譜は彼ら二人のものである。

徳川家康が江戸幕府を開くと、算砂と宗桂は京に在住しつつ、家康の保護を受けるようになった。

彼らの子孫はやがて江戸に移住して幕府から俸禄を受けることになった。

宗桂の末裔である「将棋三家」(大橋本家・大橋分家・伊藤家)は、将棋の家元となり、歴代の名人を輩出する。

③七世名人三代伊藤宗看は、元文二年には、「碁将棋席次争い」訴訟を起こした。

これは、伝統的に碁家を上とし、将棋家を下とする御城碁将棋の席順に異論を唱えたのであるが、問題が大きくなり、最後に大岡越前守の「第一席本因坊、他は相続順とする」という判決で終結した。



参考。

家元制度についての雑感(抜粋)

斯波義麿

江戸時代の日本は、世界に先駆けてさまざまな今日的文明の基礎をなす制度、システムを商習慣や文化事業の中に築いてきました。

大坂(今は大阪)の堂島の米相場会所の開設(1730)、これは、”帳合取引”と呼ばれ、現物をまったくともなわない

純然たる先物取引の嚆矢として世界商業史に刻まれています。

また、識字率の普及は、世界最高水準を誇っていました。

木版印刷による”読み本”の出現は、ヨーロッパに先駆けた、大衆出版文化の到来を意味しました。

こうした世界水準の最高レベルや”世界初の称号”を冠せられる江戸の文化事業の中に囲碁、将棋の家元制度の確立があります。

はじまりを太閤秀吉時代の碁打ち衆(本因坊算砂)への二十石二十人扶持の支給にあるとする、

この”専門棋士”の誕生は、徳川家康公が1612年に囲碁、将棋の強者八名に扶持を与え、それぞれ碁打ち衆、

将棋衆として召抱えたことによって制度的に確立しました。





参考文献は、この他にも多数ありますが、江戸時代以前からの話であり、創作された部分もあると思います。

そういうふうに伝わっている、として読んだほうがいいでしょう。







殿様(徳川家康、織田信長、豊臣秀吉、徳川吉宗、大岡越前)が囲碁が好きだったからです。大岡越前の時の将軍が吉宗



将軍は金正日みたいにやり放題だったんだね。

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