2012年5月7日月曜日

江戸時代の囲碁の段位について 江戸時代においては、棋士の段位の決定権は名人碁所...

江戸時代の囲碁の段位について

江戸時代においては、棋士の段位の決定権は名人碁所がすべて握っていたようですが、名人碁所が空位であった時期も長期間ありました。

このようなときは、昇段などはどのようにして決定されていたのですか?

本などを読んでいても、○○を○段とした、などとあっさり記述されているかと思えば、昇段を望むも果たせなかった、などと記されていることもあり、どういった手続きで決定されていたのかがわかりません。







碁所が全てを決定していた、というのはちょっと違うと思いますが。



昇段については、まず、現状の手合割での成績を評価する。

「上手(七段)の誰それには先の手合で勝ち越して先互先になった。上手並(六段)の何某には互先になった。」

だから、この人を上手並(六段)に上げたいと思うがどうだろうか。ということを、四家間の家元会議に諮る、というか報告する。

文句がなければ、合議、決定事項として昇段を果たす、と言うことになります。



四段五段くらいまでは、ほとんどの場合は成績さえ問題なければ、「昇段させました。いいですね」というような報告のみで済んでいましたが、上手ともなると他家からそれを阻止しようと横槍が入ることもあります。

碁所がいても、勝手に決定して命令ができるわけではなく、合議の結果を認可するという立場(まあ、合議に関して発言権は強いかもしれませんが、独断専行できるというわけではありません)です。



尚、囲碁の歴史に関する書籍、読み物によって勘違いをする人があるかもしれませんが、他家の昇段に横槍を入れるなどというのは本当に稀な話であって、普通は手合割で昇段すべき根拠がはっきりしていれば反対する理由などありません。諍いがおきるのは、手合割と関係なく昇段を望むものが現われるケースです。



そういう場合は、それぞれの事情と事件性があって、歴史上取り上げられるため、いつでもそういうスタンスだなどと勘違いせず、稀に起きる事件だからこそピックアップされていることを理解すべきかと思います。

歴史上有名なところでは、

・安井算知が幕命により名人碁所となったことに、本因坊道悦が故障を唱え争碁となった

・道知が御城碁に出仕する際、これまで四段だったが、長足の進歩があるとして、六段安井仙角と互先でと申し入れ、いきなり二段昇段など認めないと争いになった

・本因坊秀伯が七段昇段を望み、承諾しない井上因碩(春碩)と争碁を打った

・五世林門入(因長)が、年功により碁所就任を求めたが、本因坊伯元らの反対にあい、争碁を示唆されてとりさげた

・本因坊察元が、八段昇段、名人襲位を求め、反対者と争碁で決着を求めたこと

・丈和と幻庵因碩、それに知得仙知が加わった一連の名人運動の争い



そんなところでしょうか。全ての棋士の昇段を認めるかどうかのケースの数に比べれば、圧倒的に少ない”事件”です。



中には、家元として体裁を保つため段位だけ上げて欲しい。但し手合割りはいままで通りで。と頼んで昇段したケース。林元美のように学問的業績により(名誉的に)八段昇段というケース。

本因坊道的を六段として御城碁に出仕させたところ、あんなに強いのに六段の手合は無理だ。七段に上げろと、他家からクレームを付けられたケースなど、そんなに、なんでもかんでも他家の昇段には反対などといわずに、柔軟な面もあるということです。








まず第一に名人と碁所は同一ではありません。碁所となるには名人であることが必須条件だが、碁所に就かなかった名人もいるし、名人となっても碁所就任はしばらく待て、ということもありました。段位決定権があるのは碁所だけです。もちろん自分で押しつけるわけではなく、他家からの昇段願いを「許す」という立場です。では名人も碁所も空位の場合はどうかというと、四家の合議制によりました。円滑にはかどる時もあるし、どこかから故障が出ることもありました。他家からの名人就位願いにはとにかく反対する(同意する場合は交換条件をつける)。名人を望むには八段でなければならないから他家の八段昇段にも極力反対する。従って七段昇段にも色よい顔をしない、というのが家元四家の基本的スタンスであったようです。どこの誰にも文句を言わせず名人碁所となったのは道策ぐらいなもんです。全員先二以下に打ちこんじゃったから。

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