2012年5月8日火曜日

囲碁でよく出てくる本因坊とは、もともと何なのですか?

囲碁でよく出てくる本因坊とは、もともと何なのですか?







まず、世に知られている伝聞の話。

16世紀後半、京都寂光寺に日海という碁の強いお坊さんがいました。

当時、武家、商人たちの間でも碁が盛んであり、日海はその碁会によく呼ばれました。その場では、日海和尚様などと呼ばれるより、本因坊さんと呼びかけられていました。それは、日海が寂光寺の塔頭の一つである本因坊に居住していたため、「本因坊という塔頭にいる、碁の強いお方」という言い方で、日海のことを呼んだものです。

以後、日海は、囲碁における席では、本因坊を姓として名乗り、算砂と号しました。



ところが、これはあくまでも伝えられた話であって、実は、寂光寺には、その本因坊という塔頭がどこにあったのか、それどころか本当にあったのかどうかも、はっきりした史実がないのです。本因坊はあったが、日海はそこに住んでいたという証拠がない、とも言います。



現代に残されている囲碁の歴史の大半は、坐陰談叢が底本となっており、そこの記述が事実のように書かれますが、坐陰談叢じたいが、歴史的証拠、裏づけのない、物語である部分がとても多いのです。



それはともかく、「本因坊」というのは、「~~坊」という呼び方から、塔頭を指していることは理解できるので、元は、建造物の名前、それを転じて、日海が碁を打つときの俗名の苗字としたもの、でよいと思います。



そこから時代が下って、江戸時代に碁打衆の家元制度が確立し、本因坊家(及び、井上、安井、林の計4家元がある)として成立します。

本因坊家は、家元のなかでも歴史があり、歴代でも高手が多く、最も多くの名人を輩出した伝統があり、江戸時代から明治に移るまでに、他の家元が衰退、断絶するなか、昭和にはいるまで、囲碁界の最高の地位として存続しました。



時代が変わって、日本棋院が創立してからは、家元としての本因坊一門の意義が薄れ、一門に属さない強豪棋士が多く現われることで、その存続が危ぶまれます。

ちょうどそのとき、新聞社から、「囲碁の選手権戦を開催し、優勝者を名人とする」案を、21世本因坊秀哉名人に打診したところ、秀哉は、選手権戦による名人の誕生は、本因坊家の断絶に繋がることを危惧して、名人の呼称ではなく、本因坊の名跡を継ぐことを強く求められました。



それによって、本因坊は、家元の姓から、タイトルの名前に使われるようになり、現在まで続いています。








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