囲碁について。
本因坊のタイトルを取ると…
①何故名前が変わるのですか?(石田秀芳、武宮秀樹、山下道吾とか)
②本因坊用の①の名前は誰が決めるのですか?
③趙治勲は何故本因坊の名前の時も治勲のままなのでしょうか?
気になるので教えていただきたいです。
まず、「本因坊」というタイトル名の本来の由来は、「棋聖」「名人」のように、地位を表す名称ではなく、苗字だということ。
「名前+地位」で、「井山・名人」と呼ぶことには何の違和感もありませんが、
「山下・本因坊」は、現実には「タイトル者の姓+別の姓」というおかしなことになるです。厳密には。
本因坊は、江戸時代に成立した、囲碁の家元四家のひとつで、本因坊、安井、井上、林、のそれぞれの家を継ぐことになると、その戸籍に入り、姓を名乗ります。
江戸時代が終わり、碁打衆の制度が無くなった後は、戸籍名としての本因坊家は消滅しますが、江戸→明治の時代の本因坊家当主・秀和は、戸籍名を本名の土屋に戻し、本因坊は芸名として継続させました。
しかし、明治から大正と、碁打の地位の維持が困難になり、団結した組織の必要から日本棋院が生まれ、そこで選手権戦を開催し、碁界を活気つけることと、実力第一人者を選抜することになりました。
選手権戦を主催する朝日新聞は、第一人者は「名人」と思っていましたが、当時の本因坊・秀哉が、「第一人者となったものが本因坊を名乗ることとして、本因坊の家名を継続させてもらいたい」と申し入れ、この大会は、
「本因坊名跡争奪・全日本棋士選手権戦」
と、優勝した人は本因坊だよ、という大会になりました。
これに基づいて、本因坊タイトルの取得者は、号を名乗るという慣習があります。
第1期の優勝者関山利一の本因坊利仙、第2期の橋本宇太郎の本因坊昭宇は、日本棋院から贈られた名前です。
第3期岩本薫は、「名前くらい自分で決められる」と、薫和を名乗りました。
以降は、タイトル獲得者が、自分の好み、過去の大棋士や、後援者などの名から1字とるなどで、自由に決めてきました。
また、タイトルが現代のように多くはなく、本因坊が絶対的重みを持っていた時代、昭和の半ばくらいまでは、碁界では本因坊のタイトル者を、「本因坊○○」と呼び、記事などもそう記載していました。
号をつけるだけではなく、本因坊の姓を名乗ることにしていた時代もあるのです。
本来なら、山下は、本因坊道吾、と名乗るのが本因坊戦成立の謂れからすれば正しいですが、本因坊がタイトル名の1つとなってしまった現代では、山下道吾本因坊で通るようになってしまいました。
但し、かつての名誉本因坊の制度を、二十一世本因坊秀哉の世系を継続して名乗ることにしようと改めてからの名前の表記は、
二十二世本因坊秀格、二十三世本因坊栄寿、二十四世本因坊秀芳
二十五世本因坊治勲
と、本因坊○○の様式になります。
さて、ここで、趙治勲は何故本名?ですが
別に外国人だから辞退した、ではないです。
林海峰は、本因坊となったとき、自分の号を「海峰」と発表しています。
sdymh0704さん のご指摘の通り、峯と記載は正しいとおもいます。が、峯と峰は同意の字として、本名のほうでも出版物の勝手でどちらかが使われているケースはあるみたいです。
趙治勲は、号はいりません、つけません、と、非公式に発言があり、実際に号の発表はありませんでした。
しかし、例の本因坊世系を継ぐという立場になり、便宜上、号をつけないなら本名で、ということにするしかなったということでしょう。
①本因坊のタイトルをとった棋士が名乗る「雅号」については、「ウィキペディア」の下記の項をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A
②雅号は、基本的にはご本人が決めるのだと思います。でも、師匠に相談することはあると思います。
③趙治勲九段は韓国出身、林海峯九段は台湾出身ですので、ご本人が「雅号」を名乗ることを辞退されたと聞いています。
1)元々「本因坊」というのは,江戸時代の囲碁の家元で
もっとも格上の家系である「本因坊」家を由来としています。
そのため,本因坊のタイトル保持者=本因坊家の名跡を継ぐ者と
いう意味合いを持っているのでしょう。
本因坊用の名前(雅号)には本因坊家でよく用いられていた
「秀」の字を使うことが多いようです。
2)雅号は現在は本人が決めることが多いようです。
3)趙治勲の場合は,彼が韓国出身ということもあるかもしれません。
台湾出身の林海峰が本因坊をとったときも海峰のままだったはずです。
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